近藤, 和敬コンドウ, カズノリKondo, Kazunori
記号というと、何かの代理であり、この世界のなかで二次的な存在に過ぎないというのが一般的な見解であるかもしれない。また、知性というと、われわれの側に備えられたなんらかの(場合によっては主観的な)能力であるとされる。本論ではこのような見解に対して、記号がもつそれ自身の感性的な側面と知性的な側面が、記号の存在に関して本質的な役割を担っていること、そしてその限りで、知性はわれわれの特権的能力ではなく、そのような記号こそが知性にとって中心的であることを論じる。そこでは主にJ ・カヴァイエスの記号の哲学を検討しながら、知性的―感性的混成体としての記号について考察する(第一章)。 次に、そのような記号の振る舞いの規則性と理念的なものとの関係について論じる。そこでは主にA ・ロトマンによる理念的なものと問題という審級について検討することで、記号の生成について考察する(第二章)。