旧来の教育学、近代教育学の課題はどのようなものであったか。それは、科学が提示した「子ども」像、大人の側にある「子ども」像に合わせて教育方法を発案し、実践していくという循環構造を特徴とするものであった。言.い換えれば、近代教育学においては、「子ども」は客観的・科学的に把握可能であり、合理的・体系的に「教育することが可能」である、という.ことが前提となっているのである。近年、その前提をラディカルに問いなおす試みが一いわゆる教育における「他者」問題として一教育哲学・教育思想研究において数多く見られるようになった。「子ども」を理解不可能な「他者」としてみること、すなわち教育学に「他者」概念を導入することによって、近代教育学は根本的な反省を迫られる。「子どもは理解可能である」という前提が、どのようなパラダイムによって支配されていたのか、「子どものため」という言葉によっ・て、どれだけ「他者」である「子ども」を抑圧してきたのかが議論されはじめたのである。本論文では、まずはこのような教育学における「他者」問題に関する議論を概観し、その理論的特徴を明らかに、したい。その後、教育学における「他者」問題を理論的に異化するために、「自己」と「他者」を断絶の相のもとに捉えるのではなく、むしろ統一の相のもとに捉えるホリスティック教育論のパラダイムについて考察し、その理論的な可能性を探っていきたい。